科学哲学という学問がある。今日的には科学哲学は一般科学哲学(general philosophy of science)と個別科学の哲学(philosophies of particular sciences)に大別される。一般科学哲学が「科学とは何なのか」というかなり一般的な問題系(および、科学的説明とは何か、などといったようなそれに関係する一般的問題系)に答えようとするのに対して、特殊科学の哲学はどちらかというと物理学、生物学、化学、社会科学(経済学、社会学など)などといった個別科学と共に、その中で出てくる様々な概念を精査していくような活動だ。
一般科学哲学は科学の実践と似ているようで、実際にはかなり異なる学問だと思う。それゆえに科学を実践している科学者は科学哲学に対して「一体何を言っているんだ」と感じるのだと思う。それはちょうどキリスト教徒に対して「宗教とは何なのか」と問うようなものだ。キリスト教の実践と「宗教とは何なのか」という問いは似ているようで異なるものだ。(宗派にもよるが)キリスト教徒にとってはバイブルを読んだり、教会に行ったり、神に祈ったりといったことがキリスト教の実践なのであり、宗教をどのように定義するかなどは比較的どうでも良い話だろう。
一方、個別科学の哲学は、このアナロジーで言うならば、キリスト教の中の様々な概念や解釈を精査していくようなもので、かなりキリスト教(つまりこのアナロジーでは科学)自体に近いものだと思う。実際、個別科学の哲学は、量子力学の解釈などといったように、かなり科学に寄り添ったものだ。しかしそれはやはり哲学であり、大多数の科学者(科学の実践者)はそこで行われていることにあまり気を止めない。科学者の大多数の考え方は、量子力学の解釈がどのようなものであれ、とりあえず使えれば良いというものだろう(このような考え方は、物理学者デイヴィッド・マーミンが大多数の科学者の態度を「黙って計算してろ(Shut up and calculate)」という言葉で言い表したことに端的に表れている)。ゆえにやはり個別科学の哲学も哲学の側面が強い。これは、例えば、マイケル・サンデルの(と言うよりは、正確にはオリジナルの議論はジョン・ロールズなのだが)「才能も運のうち」という考え方が哲学であることに似ている。この考え方は自由主義(リベラリズム)の考え方であり、富の再配分などといった実際の社会政策、経済政策に影響を与えるものだが、大多数の政策の実践者は(ロールズにある程度のリップサービスはするものの)それに気を止めないことに似ている。「才能も運のうち」という考え方は哲学者ジョン・ロールズのオリジナル・ポジションという思考実験に基づいており、大まかに言うと、私たちはこの世界に生まれてくる際に、どのような才能や身体的特徴を持って生まれるかわからない。それは全くのランダムであり、ゆえに自分の持つ才能も全くの偶然の産物であり、その論理的帰結としてその才能によって稼いだ富も必然的に偶然の産物であるのだから、それは社会を通して公平に再配分されるべきである、という考え方だ。これは、まあ、そういう見方もあるかもしれないが、それって単なるものの見方(一つの解釈)だよね、ということになるだろう。実際、ビジネスで成功している人に、あなたの才能は偶然の産物だから、あなたが儲けた金を再配分しましょう、と言っても、「そんなこと言われても」という感じになるだろう。同様に、量子力学における「波動関数の収縮」を最も前提が少ない形で解釈するならば、この世界は複数の世界に分岐し、複数の宇宙が存在する、などと言われても、それって単なるものの見方(一つの解釈)だよね、ということになるだろう。だからやはり個別科学の哲学も哲学なのだ。
ちなみに、ここでいう単なるものの見方(一つの解釈)というのは、論理的にはデータと整合性を持つ理論が複数存在するが、どの理論が正しい解釈なのかデータのみからは判断できない場合を指す。量子力学の解釈とかロールズのオリジナル・ポジションなどはまさにそういった例だと思う。量子力学におけるベルの不等式がしたように、それまで完全に思弁(解釈)だったものをエンピリカル(科学)にするようなことがない限り、それらは解釈でしかない。しかしそれが解釈だから(科学ではないから)といって、私たちは何も言えないわけではない。そして、量子力学の解釈は大して世界に現実的な影響を与えないだろうが、ロールズのオリジナル・ポジションなどは現実世界の社会政策、経済政策に大きな影響を与える(一応、理論上は…)。
一般科学哲学とその失敗
一般科学哲学は「科学とは何なのか」という問いに対して、最初は科学とは実証可能な命題であると考えた(論理実証主義)が、これはすぐに間違っていることがわかった。ここでいう実証とは「すべてのカラスは黒い」のように「すべての〜は…である」といういわゆる全称命題と呼ばれるものが正しいということを示すことであるが、当然、すべてのカラスをチェックすることはできないし、カラスは明日も生まれてくる、ということを考えると、実証が原理上不可能なことは明白だろう。
その後、論理実証主義に代わり、反証主義が跋扈したがこれもすぐに間違っていることがわかった。ここでいう反証とは「すべてのカラスは黒い」のように「すべての〜は…である」といういわゆる全称命題を実証することは上記の理由でできないが、もし仮に、白いカラスのような反例が一つでもあったら、全称命題は間違っているということができる、というものだったが、反証主義にもあまりにも多くの問題がありすぎた。あまりに多いので中核的な問題の二つを挙げておくと、一つはクワイン・デュヘムのテーゼと呼ばれるもので、もう一つは確率の問題だ。
クワイン・デュヘムのテーゼは簡単にいうと以下のようになる。ある仮説(命題)を検証(反証)する際には、必ず補助仮説というものが必要になる。例えば、ガリレオが月に山があると主張した際に、ガリレオに反対する人たちは望遠鏡は本当は存在しないものを見せる道具だ、と主張し、ガリレオの主張を退けようとした(この例はポール・ファイヤアーベントによる)。つまり「月に山がある」という仮説(命題)を受け入れるためには「望遠鏡は遠くにあるものを正しく見せる道具である」という補助仮説(命題)も受け入れられなければならない。しかし仮説が補助仮説とともに検証(反証)されるということは、もしも仮説と補助仮説の束が反証されたときに、実際には仮説が違っているのか、補助仮説が間違っているのかわからない、という問題だ。そして気がつかないだけで補助仮説はたくさんある。
しかし反証主義の本当の問題は反証が「すべての〜は…である」といういわゆる全称命題を念頭においており、確率的な命題に当てはまらないことだ。ニュートン力学や相対性理論といったいわゆる古典力学はアインシュタインが「神はサイコロを振らない(God doesn’t play dice)」と言ったように、いわゆる決定論的な理論であり、「すべての〜は…である」という全称命題である。例えば、ニュートン力学の第二法則であるF=MAは「すべてのFはMAである」ということになる。しかし科学がすべて決定論的な理論ということではなく、例えば、進化生物学における適応度(fitness)の話だと「適応度の高い生物の方が生存確率(正確には生存と再生産の確率)が高い」ということになり、これは確率的な命題である。確率的な命題ということは、コインを投げることで考えてみればわかりやすいのだが、「このコインはフェアなコインだ=表の出る確率が50%、裏の出る確率が50%」という仮説(命題)は反証可能なのだろうか。コインを100回投げて、51回表が出たら、「このコインはフェアなコインだ=表の出る確率が50%、裏の出る確率が50%」という仮説(命題)は反証されるのだろうか。さらにいうならば、実際に科学を実践している科学者ならばすぐにわかることだが、決定論的な理論ですら実際にはノイズ(計測誤差、サンプリング・エラーなど)の形で確率が混入してくる。相対性理論が正しいことを最初に示した1919年のアーサー・エディントンの実験はノイズまみれだった!
このように「科学とは何なのか」という問いに対して実証可能性とか反証可能性などといった何らかの一般的な基準を示そうとする試みは失敗し、一般科学哲学は下火になり、科学哲学の中心は個別科学の哲学へと移っていった。そして科学的検証の基準は実証可能性とか反証可能性などから統計、確率へと移行していった。まあ、正確にいうと、実際の科学者は実証可能性とか反証可能性など机上の空論は最初から相手にしていなかった、というのが正しいと思う。実際に、アーサー・エディントンの弟子であったハロルド・ジェフリーズは反証が確率に対応できていないことから、反証に嫌悪感を抱いており、反証可能性を提唱したカール・ポパーは基本的な確率演算すらできないという理由で、ポパーがロイヤル・ソサイエティーのメンバーになることを阻止しようとした(ちなみにポパーは相対性理論に強い影響を受けて反証可能性を考え出したから皮肉なものだ)。
個別科学の哲学、そして再び一般科学の哲学へ
しかし科学哲学が一般科学哲学から個別科学の哲学へ移行したことで、個別科学の哲学の中から「科学とは何なのか」ということに関して新しい知見が生まれてきたように思う。例えば、量子力学や統計力学の解釈の一つの方向性はそれらは存在論的(ontological)なものなのか、認識論的(epistemological)なものなのか、という問いだ。これは「科学とは何なのか」という問いに対する新しい視点だ(まあ別にそんなに新しくはないのだが…)。そして、量子力学の解釈はハードコアな物理学の話だが、統計力学の不可逆性(エントロピーの増大)は存在論的なものなのか認識論的なものなのか、という問いは(統計力学そのものの解釈としてどうかは別にして)確率、統計を用いる生物学や社会科学といったその他の学問への応用が効くと思う。つまり統計力学の解釈といった個別科学の哲学から出現した考え方が「社会科学とは何なのか」という問いに新しい光を指す可能性がある。ただもちろん、ここで行われる活動は社会科学者が実際に行なっていることとは大きく異なる。
つまりもしエドウィン・ジェインズの統計力学に対する考え方(それは限られたデータに基づいた私たちの精一杯の推理であり、それが本当に真実かどうかはわからない、という考え方)が、(統計力学そのものの解釈としてどうかは別にして)社会科学に正当性を持って移行されるならば、社会科学とは手持ちのデータに基づく推論であるということになる。個人的にはこれは正しいのではないかと思っている。ただ、そういったところで、社会科学の実践者は「一体何を言っているんだ」としか感じないだろう。
ついでながら言うと、科学者(科学の実践者)が科学哲学について感じる強い違和感の一つは、その謎の「「上から目線(condescending)」だろう。科学哲学は科学者から見ると机上の空論(armchair philosophy)のように感じられるにも関わらず、なぜか科学は「このように実践すべきである」ということを説いてくる。例えば、生物学や統計学を専門とする哲学者エリオット・ソーバーは『Evidence and Evolution』という著作のまえがきで以下のようにいう。「…科学哲学は科学はどのようであるべきかを研究する。科学哲学は規範的な学問であり、そのゴールは良い科学から悪い科学を、良い科学の実践を悪い科学の実践から峻別する。この評価的な努力は思い上がりの極致にも聞こえるだろう…(philosophers of science study science as it ought to be. Philosophy of science is a normative discipline, its goal being to distinguish good science from bad, better scientific practices from worse. This evaluative endeavor may sound like the height of hubris)」云々。正直、「いや、そうだろ」という感覚は拭えない…
