正義(justice)とは何なのか。正義とは基本的に正しい(right)ということと同義だ。では何が正しいのか。例えば、合法であるということは正しいことなのか。違法であれば正しくないのか。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは世界に存在するすべてのものは目的を持っていると考えた(これはアリストテレスの目的論的世界観と呼ばれる)。これが何を意味するかというと、「〜である(is)」ならば「…であるべき(ought)」というように事実は価値(目的、意味)を内包しており、言い換えるならばすべての存在、事実は良さ(good)を内包しているということになる。例えば、カップの目的は液体を入れることであり、カップであるならば液体を入れることができるべきである、ということになる。それがカップの目的であり、カップの価値、意味であり、それが良いカップということになる。逆に液体を入れられないカップなど意味がわからないし、価値もない。良くないカップということになる。この考え方に則ると、正しさは良さの延長線上にあるということにある。液体を入れられるカップが良いカップであり、それが正しいカップである、それが正しいカップのあり方である、ということになる。そしてこの考え方は(封建主義の時代である)中世にも引き継がれた。
この考え方からすると、例えば、母親「である」ならば子どもの世話をす「べきである」、それが良い母親であり、正しい母親像であるだとか、政治家「である」ならば国家のために尽くす「べきである」、それが良い政治家であり、正しい政治家像である、などということになる。逆に子どもを虐待するような母親、国家を売るような政治家は、良くない母親、良くない政治家であり、正しくないということになる。このアリストテレス的な考え方は相当程度私たちの日常感覚を表しているだろう。だからこそ、男「である」ならば、日本人「である」ならば…などという考え方が生じてくる。
しかしこの考え方は近代に入って大きく変化した。もちろんターニングポイントは近代の祖である哲学者デカルトだ。デカルト以降客観と主観が別れ、「である」という事実と「であるべき」という価値は、客観と主観という交わることのないものであると考えられるようになった。このデカルトの考え方はその後の哲学者にも引き継がれ、17世紀スコットランドの哲学者ヒュームは「である・であるべきの問題(Is-Ought Problem)」という問題を提起し、「である」という事実から「であるべき」という価値を導くことはできないと主張した。そしてこれも近代を生きる私たちの日常感覚をよく表している。女性「である」から女性らしく振る舞う「べきである」というのは近代を生きる私たちにはあまりにも封建主義的、時代錯誤に聞こえる。
近代の考え方では世界は物理法則などで記述される客観的な事実なのであって、そこに何の意味、目的も内包されていないのだ。だから重力が存在するというのは重力の法則で記述される客観的な事実であり、重力の意味、価値、目的などを問うても意味はない。重力は良いことなのかなどは意味をなさない疑問なのだ。カップの目的は液体を入れることである、というように私たちが世界に意味や価値、目的を見出すのは、私たちが単に自分たちの主観的な価値を世界に「投影」しているだけなのだ(この投影という言葉は20世紀の哲学者J.L. Mackieが有名にした)。
近代は世界が意味、目的、良さを内包するというアリストテレスの世界観を180度覆した。つまり正しさは良さの延長としては定義できないのだ。そして近代を生きる私たちにはこの感覚は相当程度理解できるだろう。良さが主観的なものである以上、良さに基づいて正しさが構築されてしまうと、その良さを共有しない人たちは苦しむことになる。例えば、日本人「である」ならば、国家存亡の危機に際して国のために特攻して命を投げ出す「べきである」などと言われて、それが正しい日本人像であると言われても、そのような良さを共有しない人にとってはたまったものではない。
では近代以降正しさとはどのように定義されるのか。ここで登場するのが哲学者カントそしてその20世紀における後継者ロールズだ。正しさは良さ(価値)から導けない。では主観的な良さ(価値)をまるで持たない人間を想定してみよう。それは純粋な魂のようなものだ。そのような人間は何を正しいと考えるのか。このように考えたときに、それは公平性であるという結論に至る、というのが彼らの考え方だ。これは自由主義(リベラリズム)と呼ばれ、現代の基本的人権や法律の基礎となっている。つまり私たちは皆平等に基本的人権を持っており、自分がどんなに良いと思うことでも、それを追求するために他者の権利を侵してはならない、ということになる。自分が良いと思うことを追求することは構わないが、それは他者の権利を侵害しない範囲でのみ可能なのだ。
言い換えるならば、古代、中世では良さが正しさを導く、つまり良さが正しさに先行した。一方、近代では公平性という正しさの中でのみ良さを追求することができる、つまり正しさが良さに先行する、ということになる。やはり近代はアリストテレスの世界観を180度覆したのだ。そして私たちの常識を作るこの自由主義的正しさの概念が法律などに採用されているから、私たちは合法であるということは正しいことであり、違法であるということは正しくないことである、と安易に考えてしまいがちだ(この安易さのもう一つの原因は法律は国家が作ったものであり、それは正しいのだという安易な考え方だ)。
ではこの近代的な正義の理論は正しいのかというと私は正しくないと思う。なぜ社会には不条理が存在するのかでも書いたように、法律などの社会制度は最終的に正しい人間像に依拠していなければならない。自由主義の想定する人間観、つまり主観的な良さ(価値)をまるで持たない人間などはまるで正しくない。やはり正しい人間像はアリストテレス的な良さを前提した人間像なのだ。私たちはただ生きるのではなく、良く生きたいと願う。そして自由主義に対する戒めは「止持作犯」というよく言葉にも表れてくる(この言葉は川口和秀氏の『獄中閑』から学んだ。これはとても良い本なのでおすすめだ)。止持作犯とはしてはならない事をするのも罪だが、しなければならない事をしないのはもっと罪だ、という意味である。自由主義は他人の権利を侵害してはならないとは教えてくれるが、何をしたら良いのかは教えてくれない。何をしたら良いのかを教えてくれるのはアリストテレス的な世界観のみだ。男「である」のだから…「であるべき」だ、などというように。自由主義的正義を突き詰めていくならば、他人に迷惑をかけない限り(他人の権利を侵害しない限り)、例えば、薬に呆けていても、それは「正しい」人生ということになってしまう。
そしてこの自由主義、つまり基本的人権という概念が法律の基礎にあるから(犯罪者にも人権があり)、実定法上復讐は許されないということになる。そしてこれは現代社会を生きる私たちの常識だ。しかしこれは私たちに違和感や不条理の感覚をもたらすのではないだろうか(実定法をどのように変えれば良いかなどといった具体案は特にないのだが)。例えば、旧西ドイツで娘を殺された母親(マリアンネ・ハバマイヤー)が加害者の裁判にピストルを隠して持ち込み、加害者を撃ち殺したということがあった。これは実定法上は完全に違法なのだが、当時の西ドイツの国民感情はハバマイヤーの側にあった。確かに、どこにハバマイヤーを批判する理由があるのだろうとは思わないだろうか。
イギリスの哲学者で小説家であるアイリス・マードックは「私たちがまず学ぶべきは科学ではなく文学(シェークスピア)であると言った(it is and always will be more important to know about Shakespeare than to know about any scientist)」が、それは自由主義のような(社会)科学(もしくは哲学)は正しい人間像を描き出せていないが、文学は正しい人間像を描き出せているからだ(Murdoch, Iris. The sovereignty of good. Routledge, 2013 (Original in 1970).)。シェークスピアやハリウッドの映画、さまざまな文学などには復讐劇が多々ある。それはなぜか。それは私たちの本心ー本当の声ーが望むことで、それが正しい人間像なのだ(一応断っておくと、これは政策論争ではなくて哲学論争だ)。だからこそ私たちは不条理をもたらす野蛮な常識を疑い、本当の声に耳を澄ませなければならない。
人間観が我々人間を正確に表していないときに、そのような人間観に基づいて作られた社会制度は不条理を生み出す。近代的な正義感はさまざまな場所で不条理を生み出している。もう一度良さに基づいた正しさを考えてみるべきだと思う。
