誰が実証主義を殺したか

先日、前々から気になっていたDavid EdmondsによるThe murder of professor Schlick: The rise and fall of the Vienna Circle(シュリック教授の殺害:ウィーン学団の盛衰)という本を読んだので、少し思ったことを。ウィーン学団(Vienna Circle)とは20世紀初頭から第二次世界大戦あたりまでウィーンで活動した哲学者、科学者、数学者などの集いで、基本的にのちに科学哲学と呼ばれる学問の基礎を作り、論理実証主義(logical positivism)と呼ばれる哲学内の運動を推進したグループだ。この本は重い哲学書というわけではなく、どちらかというと軽い哲学史の本および当時のウィーンの状況を書いた本という感じだった。

大きく分けて西洋哲学には分析系、大陸系、プラグマティズムと呼ばれる三つの潮流が存在し、分析系は英語圏、大陸系はドイツ、フランスなど大陸、プラグマティズムはアメリカの哲学という感じに分けられる。この三つの分離が起こり始めたのもこの頃で、ウィーン学団は(大陸であるオーストリアであるにもかかわらず)分析系の成立に大きく関わっている。当時のウィーンにはウィーン学団だけでなく、様々なサークル(集い)があったようで、それはウィーンのコーヒーハウス(いわゆるカフェ)の文化から生じてきたようだ。コーヒーハウスの文化というのは、ウィーンの知的階級はそれぞれお気に入りのコーヒーハウスを持っており、コーヒーハウスではコーヒー一杯で様々な新聞などを自由に読め、何時間でもそこにいられる、そして常連には常にその人が来る時間にいつもの席を用意しておく、というものだ。コーヒーハウスに関しては確かドイツの哲学者、社会学者ユルゲン・ハバーマスの『公共性の構造転換』にも書いてあったような気がするし、少し前に友人に誘われて表参道にできたウィーンのコーヒーハウスの支店に行ったのだが、友人の父親はまさにウィーン学団が活動していた頃のウィーンに生まれ、ナチスから逃れてアメリカに亡命した人であり、第二次大戦以降はウィーンにもよく行っていたようだが、そのコーヒーハウスの本店はその父親が贔屓にしていたコーヒーハウスだった。

ウィーン学団は本のタイトルにもなっているモーリッツ・シュリックが立ち上げたサークルで、様々な人物が関わっていた。(少なくとも私の観点からは)最も有名なのが論理実証主義の中心事物であるルドルフ・カルナップと不完全性定理を証明したクルト・ゲーデルだろう。ウィーン学団は数学者で哲学者であるアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとともに『プリンキピア・マテマティカ』を書いたイギリスの哲学者、論理学者バートランド・ラッセル、そしてその弟子にあたるオーストリア人の哲学者ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインを尊敬しており、ウィーン学団は哲学から形而上学(メタフィジックス)を取り除き、科学に資する、つまり科学に役立つ哲学を作ろうとした。これが現在まで続く科学哲学、分析系哲学および(論理)実証主義の基礎を作っている。

大まかに言うと、ウィーン学団から続く科学哲学、分析系哲学および(論理)実証主義の基本的な考え方は、哲学とは観察できない形而上学(メタフィジックス)について考えることではなく、観察できること(エンピリカルなこと)に基づいて問題系を論理的にクリアにすることにある、ということだ。これはヴィトゲンシュタインの思想に大きく影響を受けている。この対極にあるのが、同時代にドイツで影響力を持っていた哲学者マーティン・ハイデガーだ。彼は現象学と呼ばれる大陸系の哲学の実践者で、形而上学(メタフィジックス)を実践した。ウィーン学団は彼の哲学を嫌っていた。もう一つ論理実証主義の中核的思想は、特にルドルフ・カルナップによって提唱された「実証」ということだ。ウィーン学団は次のように考えた(もちろん差異はある)。世界には二つ分析的と総合的という二つの真理しかない。分析的真理というのは1+1=2といったような論理的な真理で、論理的に証明できるものだ。一方、総合的真理というのは「イギリスの首都はロンドンである」といったようにいわゆる経験論的な真理、つまり実際に観察などによって調べなければならない真理だ(論理的にはイギリスの首都はロンドンでなくても良い)。この観察(実験)などによって調べるというのが実証に当たる。論理的な真理が証明されるように、経験論的真理も実証されなければならない。そうでなければそれらは認知的に無意味である、というのが彼らの核たる主張だった。

ウィーン学団と密接な関係を持っていたのがハンス・ライヘンバッハによって立ち上げられ、カール・ヘンペルらが参加していたドイツのベルリン学派だ。そして他にもイギリスのオックスフォード大学で哲学者ギルバート・ライルのもとで学んでいたアルフレッド・エイヤーやホワイトヘッドの弟子であるW.V.Oクワインらが当時のウィーンに行き、ウィーン学団と交流をしていた。エイヤーは論理実証主義を英語圏に広め、クワインはのちに哲学者ピーター・ゴドフレイ・スミスが20世紀で最も影響力のある分析系の論文と評した『経験論の二つのドグマ』を書くことになる。そしてシュリックの講演に感銘を受けたイギリス人哲学者スーザン・ステビング(イギリスで最初に哲学教授になった女性)はAnalysisというジャーナル(論文を発表する雑誌)を立ち上げ、これは分析系の論文を発表する中心的な場所になった。

しかし(論理)実証主義は突如として影響力を失った。では誰が実証主義を殺したのか。候補は四つあると思う。一つ目はモーリッツ・シュリックを撃ち殺した彼の元の学生、ヨハン・ネルボックだ。彼は精神的に不安定(統合失調)で、彼が好きな女性にそのことを告げたところ、彼女はシュリックのことを好きだというようなことを言ったらしく、それもネルボックによるシュリック殺害に影響を与えているのではないか、という推論もある。しかしこれはシュリック個人の殺害であり、論理実証主義全体に当てはまるものではない。

もう一つは本人自身が「私が(論理)実証主義を殺した」とか「(実証主義を殺したことに)責任がある」と言っていた哲学者カール・ポパーだ。ポパーはウィーン学団と同時期にウィーンで活動していた哲学者でその性格からウィーン学団には入れなかったのだが(彼は相手を徹底論破するということに情熱を傾けていた)、彼はウィーン学団の実証という考え方に真っ向から反論した。ちなみに彼はケンブリッジ大学でヴィトゲンシュタインとも大喧嘩しており、この話もDavid Edmondsによって本になっている(まだ読んでいないが、彼らの言い分は全く異なる)。彼の論理はこうだ。科学理論など実証などできるわけがない。本当に大切なのは反証なのだ。例えば、「すべてのカラスは黒い」という命題を実証するということを考えると、世界中のすべてのカラスを確かめなければならないし、未来のカラスも確かめなければならない。そんなことは不可能だ。しかし一羽でも黒くないカラスが発見されれば、それは反例となり、「すべてのカラスは黒い」という命題は反証されることになる。科学はの中核は実証ではなく、反証なのだ。

ポパーは彼が実証主義(ポジティビズム)を殺したのだと主張して、彼自身の哲学をポジティビズム対してその後、を意味するポスト・ポジティビズムと呼んだ。しかし多くの哲学者は彼もポジティビズムの一部であるということで一致している。実証主義(ポジティビズム)の基本的な考え方は哲学とは形而上学(メタフィジックス)ではなく、問題系を論理的にクリアにすることにあるということもそうなのだが、科学を法則(自然法則、アルゴリズム)であると考えるという側面もある。その観点から考えると、ポパーは明確に実証主義者だ。私が一時期教わった先生がポパーと直接知り合いだったのだが、すでに書いたようにポパーは真理の追求というよりも相手を徹底論破するということに価値を見出しており、その先生曰く、自分の考え方に反対する人間とは全く口を聞かなかったらしい(ちなみに彼はケンブリッジ大学でのヴィトゲンシュタインとの大喧嘩のポパー側の言い分を本人から聞いたらしい)。想像だが、その人物とは哲学者コリン・ハウソンではないだろうか。ハウソンはポパーによって設立されたロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の哲学部で学び、そこで教授になった哲学者なのだが、彼はポパーの主張する反証自体が原理上不可能なことを示した。まあ、短くいうと、ポパーは(統計学者のフィッシャーみたいに)ちょっと性格に難ありな感じであり、だからこそウィーン学団に誘われなかったのだが、彼は大口を叩く傾向もあり、実証主義(ポジティビズム)を殺したのだと主張して、彼自身の哲学をポスト・ポジティビズムと呼んだあたりから話がややこしくなったのだと思う(哲学者ダニエル・デネットが書いているように、バートランド・ラッセルも誇張表現を多用したらしいが、彼のはユーモラスなものだ)。実際、ポパーはウィーン学団を論理実証主義と呼んだが、ウィーン学団は自身を論理経験主義と呼んだ。

そしてこのポパーが論理実証主義を殺したという考えをほとんどの哲学者は否定するだろう。なぜならば「すべてのカラスは黒い」といったような命題を実証することができないのは17世紀のスコットランドの哲学者ディヴィッド・ヒュームがすでに指摘したことであり(その前にもイギリスの哲学者トーマス・ホッブズが『リヴァイアサン』の中で指摘している)、ヒュームの帰納法の問題として知られている。未来のデータもすべてチェックすることなどできるわけもなく、ウィーン学団が目指したことは原理上不可能である、というのが基本的な考え方で、この考え方からは論理実証主義は殺されたのではなく、論理的な内部崩壊による自殺の方が近いのではないか、ということになる。私は基本的にこの考え方に賛成だ。実際、証明も実証もされない命題は認知的に無意味であるというような考え方は完全に間違っている。認知的に無意味というのは情報がワーキングメモリに到達していないだけの話で、例えば「神は存在する」などといった証明も実証もできない命題でもワーキングメモリで処理さえされれば、十分に認知的に意味を持つ(ワーキングメモリはシステム2の中核を担うものだ)。

しかしもう一つ候補がある。それはナチスだ。当時のウィーンはナチスの脅威下にあり、ウィーン学団のメンバーの多くがユダヤ人、もしくはユダヤ人と結婚している、もしくは政治的左派だった。モーリッツ・シュリックはユダヤ人ではなかったが、彼が殺された際にはユダヤ人扱いされたり、実はユダヤ人のアシスタントを雇っていたなどと新聞に書かれた(両方とも事実ではない)。この危機感の中で多くの学者がイギリス、アメリカなどに亡命した。あるユダヤ人の学者(オットー・ノイラート)はロシアに出かけていた際に「カルナップがあなたを待っている」という電報を受け取り、そのまま亡命した。「カルナップがあなたを待っている」というのは帰国すると身に危険が及ぶというあらかじめ決めていた暗号だったのだ。ちなみにウィーン学団が嫌ったハイデガーはナチスのメンバーとなってしまった。

こうしてウィーン学団のルドルフ・カルナップ、ベルリン学派のハンス・ライヘンバッハ、カール・ヘンペルらはアメリカに行き、論理実証主義、科学哲学、分析系哲学などを広めることとなった。ウィーン学団の中で政治から最も遠かったのが天才クルト・ゲーデルであり、彼はユダヤ人でもなかったのだが、アメリカに転居し、アインシュタインらが所属するプリンストン高等研究所で研究をしていた。アメリカに亡命しアイオワ大学で研究をした哲学者グスタフ・ベルクマンと会った際に、彼は「なぜアメリカに来たの?」と全く無邪気に聞いたらしい。さすが天才は考えることが違う。

ルドルフ・カルナップ、ハンス・ライヘンバッハ、カール・ヘンペルらはアメリカで多くの弟子を作った。ライヘンバッハの弟子はハーバード大学でW.V.Oクワインの同僚となったヒラリー・パトナムやウェスリー・サモンが有名だ。ヘンペルの弟子筋だとジェグォン・キム、フィリップ・キッチャー、ロバート・ノージック、ジョン・イヤーマンらが有名だろう。パトナムは博士論文でライヘンバッハの実証主義的パラダイムをなんとか擁護しようとしたが、それ以降、実証主義を離れ、最後にはプラグマティズムへと移行していった(ちなみに彼は師であるライヘンバッハの紹介でアインシュタインに会っている)。パトナムの弟子はネド・ブロックやエリオット・ソーバーらがおり、パトナむは実証主義から離れていったのに対し、ソーバーはライヘンバッハを敬愛しており、ウィスコンシン大学でハンス・ライヘンバッハ教授職についていた。ソーバーの著作にはライヘンバッハの影響がそこここに見受けられる。ちなみにネド・ブロックは私が心の哲学、意識の哲学を学んだ教授だ。

このように考えたときに、実証主義は内部崩壊とナチスによって大きな打撃を受けたと言えると思う。しかし実は実証主義は死んでいない。死んだのは論理実証主義であり、今でも実証主義の考え方は科学、科学哲学、分析系哲学の中に粛々と生き続けている。例えば、エリオット・ソーバーはその著書Evidence and Evolutionでライヘンバッハの「仮説の発見過程」と「仮説の検証過程」という考え方に基づいて科学を分析しようとしている(とてもうまくいっているとは思えない。その結果彼のAIC解釈はおかしなものとなる)。ちなみにこの本は日本語に翻訳されているようなのだが、第一章だけであり、そこでは彼の議論が「仮説の発見過程」と「仮説の検証過程」に基づいているということは明言されていない。それは第二章を待たねばならない。私自身は分析系ではなく、大陸系およびプラグマティズムに大きく影響を受けているから、実証主義や分析系哲学はあまり好きではないのだが、どのように分析系哲学が生まれてきたのかを知ることができてよかった。もちろん分析系にも良いところはあり、それは分析系は論理的であり、クリアであり、エンピリカル、つまり経験論的である点にあると思う。ここはウィーン学団の思想が良い形で生きている場所であり、その最前線にいるのはネド・ブロックらだと思う。

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