論理的整合性、オッカムの剃刀、反証可能性、線引きなど

前にもオッカムの剃刀について書いたが、オッカムの剃刀は基本的に仮説が二つあり、それらの仮説が全く同じ予測をするときに、つまり仮説とデータもしくは予測が論理的整合性を持つとき、簡潔な仮説の方を選択すべきであるという考え方だ。この考え方は二つ以上の仮説についても拡張できる。もちろん実際の場面では往々にして複雑な仮説の方が予測能力が高い場合があるので、オッカムの剃刀は単独では使われず、予測能力の高さ(バリアンス)と簡潔性(バイアス)のトレードオフとなる(バイアス・バリアンス・トレードオフ)。つまり典型的には以下の三つのシナリオが考えられる。

  1. 複雑なモデルと単純なモデルが存在し、それぞれの予測能力が同じ場合(1)
  2. 複雑なモデルと単純なモデルが存在し、複雑なモデルの予測能力の方が低い場合(2)
  3. 複雑なモデルと単純なモデルが存在し、複雑なモデルの予測能力の方が高い場合(3)

1、2の場合、オッカムの剃刀は当然単純なモデルを選択することを薦める。これは情報理論の観点からは、最良の仮説(モデル)は最も情報を圧縮されたモデルであり、最小記述長(minimum description length, MDL)で記述されるモデルであるということと呼応する。この辺りでオッカムの剃刀はアブダクションつまり「最良説明への推論」とも関連してくる。3の場合は難しい選択になり、統計学ではAICやBICなどもしくは交差検証などと言った手法が使われることになる。ちなみに別の場所で述べたように、AICはアブダクションに影響を受けて作られた。

もちろんオッカムの剃刀はアンブレラタームである(=オッカムの剃刀、つまり単純性、簡潔性に一つだけの定義があるわけではない。複数の基準、複数の考え方をまとめたものである)ので、統計学で使われるようなパラメータの数という指標だけでなく、さまざまな考え方がある。なにをもって完結とするのかにはいろいろな考え方があるだろうし、それに対する理由づけも数学的なもの(いわゆる量的-quantitative-なもの)でなく、その方が美しいと言ったような質的-qualitative-なものもあるだろう。

今回は1の単純な場合を考える。では具体的に複雑なモデルと単純なモデルが存在し、それぞれの予測能力が同じ場合というのはどういう場合か。パッと思いつくのは超能力などといったものだろう。空中浮遊できるなどといった超能力があると主張する人がいるとする。もちろんそれを受け入れるというのも一つのオプションであるし、受け入れないというのも一つのオプションだ。しかしここでオッカムの剃刀は受け入れないオプションを薦めることになる。なぜならば、その方が簡潔だからだ。どう簡潔なのか。空中浮遊などといった超能力を認めるということは物理法則(物理理論)などを再構築しなければならないということになる。一方で、超能力の存在を否定すれば、今ある物理学の存在を受け入れて、科学に対してなにも大きな修正は必要ないということになる。

一時期科学哲学を専門とするカール・ポパーという哲学者が反証可能性という自身の主張する「科学の基準」を強く打ち出し、反証可能性を伴わないものは科学ではないと言ったことがある。ポパーにとっては反証可能性という基準は科学と疑似科学を線引き(demarcation)する道具でもあった。そして彼は生物学は反証可能でないので科学ではないと主張し始めた。ただ、そうであるならば、さらに反証可能性を伴わない社会科学や心理学なども科学ではないことになる。つまり物理学以外は科学ではなくなるということになる(ちなみに本当は物理学も反証可能ではない。これは簡単に示すことができる)。つまり反証可能性という(訳のわからない)基準をとるか社会一般で科学とされているものを取るかという選択であり、やはり後者の方が簡潔だろう。反証可能性をとってしまうと、科学全体を再構築しなければならないことになってしまう。

インテリジェントデザインと呼ばれる世界は神によって作られたという考え方もやはり簡潔性を欠く。インテリジェントデザインという考え方はキリスト教社会であるアメリカで広い支持を集める考え方で、進化は起こっておらず、聖書にそう書いてある5000年ほど前に神が人間やこの世界を作ったという理論だ。元々はイギリスの神学者ウィリアム・ペイリーの『自然神学』という著書にインスピレーションを受けており、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの世界五分前仮説にも通じるところがある。しかし炭素年代測定や放射年代測定で化石の年代を測っているのだから、そしてウイルスの変化といったようなミクロなレベルでの進化は観察されているのだから、そして炭素年代測定や放射年代測定などは物理学、化学に基づいており、人類学や考古学、歴史学などはそれに基づいているということを考えると、やはり進化という考え方を否定するのはあまりにもコストが高すぎると言わざるを得ない(もちろん現在の進化理論、つまり進化の総合説が完全に正しいなどとは考えていないし、宗教が悪いとも思わない)。ただオッカムの剃刀の考え方から見たときにやはり進化の方が簡潔であると考えられる。

ポパーはフロイトの心理学も反証可能でないという観点から、科学的でないと考えた。しかしそもそも科学自体が反証可能性を持たないことを考えると、反証可能性は科学、疑似科学の線引きには使えない。フロイトの心理学は科学ではないということの類似の問題は認知心理学と臨床心理学の間のテンションにも見られるが、基本的にフロイトの心理学が科学的でないのは、例えば、オイディプス・コンプレックスなどといった妄想じみたものがどうして正しい理論なのかがわからないことだ(フロイトの偉業は臨床心理学を確立し、無意識という概念を明確に打ち立てたことだろう)。オイディプス・コンプレックスなどはたしかに人間心理と論理的整合性(compatibility)を持つ。ただ論理的整合性は非常に弱い関係性であり、ゆえに大概のデータ(予測)と大概の理論(仮説、モデル)は論理的整合性を持つということになる。

まさにこのために反証可能性は成立しない。反証可能性はモーダス・トレンズと呼ばれる論理形式に則っている。一般法則(自然法則)に対する反例が一つでもあれば一般法則は反証されることになる。しかしそうだとすると一般法則が確率的な時には成立しないし、古典力学といったような決定論的な法則の場合でも実際の現場ではノイズが混入することを考えると、決して反証は成立しない。なぜならばノイズや確率を考えた時に、どのようなデータ(予測)でもどのような理論(仮説、モデル)とでも論理的整合性を持つということになってしまうからだ。ただもちろんそんなものは哲学者の戯言であり、実際の現場ではそのような論理的整合性を持つ可能性を全て考えることなどない。それゆえにオッカムの剃刀が必要であるということになる。そして複数仮説の中から仮説選定が難しい時にモデル選択、交差検証などといったバイアス・バリアンス・トレードオフが使われることとなる(もしくは社会学のように機能主義と葛藤理論、紛争理論がひたすら並走し続けるような奇妙な状況に陥る)。

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