科学哲学という研究領域がある。ざっくりいうと、科学哲学の基本的なテーマは「科学とは何か」ということだ。
現代的な意味での科学哲学が始まったのは20世紀初頭、ウィーン学団やベルリン学派あたりだろう。ウィーン学団が目指したのは哲学からメタフィジックスを取り去り、哲学を科学にとって有用なものにするということだった。ここでいうメタフィジックスというのは非科学的と考えられる価値などといったものなのだろう。そしてそれ以降、科学哲学は物理学を中心に回ってきた。もちろんこれは何も科学哲学に限った話ではなく、17世紀にニュートン力学が成立して以降、全世界を単純なアルゴリズムで記述するというニュートン力学(もしくはさらに一般的に物理学)はすべての科学の理想型となり、多かれ少なかれすべての科学はニュートン力学を目指したり、社会学、文化人類学などといった自分の領域は物理学的で無い(あまり好きな言葉ではないが、いわゆる社会科学の中で言われる量的研究でなく、質的研究)と考える科学者たちも、(量的研究の象徴である)物理学を意識していたことは間違い無いだろう。社会科学の中でも経済学などは明確に物理学を理想の形として意識しているだろう(経済学は人間行動をアルゴリズム化(法則化)しようとした)。
しかし科学哲学はあまりに物理学を理想として「科学とは何か」ということを語ろうとしたあまり、生物学、社会科学などといった他の科学を無理矢理に物理学的なアナロジーに落とし込もうとしてしまったようにおもう。実際には物理学のみが非常に特殊な科学である、というのが真実ではないか。通常であれば自然科学と社会科学という切り分けられ方をするが、そしてそれには研究対象が自然であるのか人間社会であるのかという観点から一面の真理があるが、フィールドではなく科学の類型ということを考えた時には、物理学とそれ以外という切り分け型の方に真理があるとおもう。
科学とは何か、と問うたときに論理実証主義や反証主義など従来の科学哲学は科学と非科学(疑似科学)の間の基準を探し求めてきた。これはいわゆる科学とそれ以外の線引き(demarcation)問題である。しかし科学に関するもう一つの視点は科学は存在論的(ontological)なものなのか、認識論的(epistemological)なものなのか、という問いだとおもう。存在論的とか認識論的というと小難しいが、科学が存在論的なものであるというのは科学は世界に関する本当の真理であるということであり、科学が認識論的なものであるというのは科学は私たちの推理(推論)であるということだ。これが科学とは何か、という疑問に対する一つのアプローチだろう。
科学は推理小説や裁判などと同じで、バラバラで不完全な情報や証拠(いわゆるデータ)を拾い集め(観察、実験)て、最も納得できるストーリー(理論)を推理することだ。これはいわゆるアブダクションの作業になる。では限られた情報や証拠に基づいて推理した結果は絶対の真理なのだろうか、もしくは所詮間違う可能性もある推理に過ぎないのだろうか?これが科学は存在論的なものなのか、認識論的なものなのか、という問いである(もちろん論理的には両方という可能性もあるだろう)。もし科学が存在論的なものであれば、科学は我々人間の視点とは別に存在する真実ということになるが、もし科学が認識論的なものであれば、科学とは我々の限られた視点から世界(宇宙)をなんとか理解しようとする活動、つまり推理のようなものということになり、それは間違う可能性や新しいデータが得られたときに改変される可能性をもつものということになる。
これに関して、存在論にコミットできる可能性を持っているのは物理学だけなのでは無いだろうか。生物学(まあ、この括りも相当怪しいものだが)やら社会科学などといったものは所詮認識論的なものなのでは無いだろうか。
物理学に関しては、例えば、統計力学や量子力学が存在論的なものであるのか認識論的なものであるのかで議論が続いている(これは基本的に哲学者の間での話で、物理学者の基本的なスタンスはとりあえず道具として使えるのだからそれがなんであれ良いという、いわゆる道具主義的なスタンスだ。このスタンスは物理学者ディヴィッド・マーミンの「黙って、計算してろ」というフレーズによく現れている)。例えば、物理学者エドウィン・ジェインズは統計力学は推論に過ぎないと考えるが、物理学者のマジョリティーは統計力学を存在論的なものと考える。統計力学の問題は物理学は(ニュートン力学であれ、相対論であれ、量子力学のシュレーディンガー方程式であれ)系の発展は基本的に時間的に可逆なのだが、統計力学のエントロピーの法則は時間的に不可逆であるという点にある。つまり同じ物理学の中で完全なる矛盾が生じているという点にある。
さてこれをどうやって理解するのかだが、ジェインズは統計力学は推論に過ぎないと考えた。つまりそれは私たちの目から見た認識論的なものなので、実際の物理学が可逆性を持っていても、それとは別の次元の話である、ということになる。他の物理学者は、例えば、物理法則(ニュートン力学であれ、相対論であれ、シュレーディンガー方程式)自体は可逆なのだが、初期条件(宇宙のはじまり)が、低いエントロピー状態(past hypothesisと呼ばれる)だったので、エントロピーが増大すると考える。つまり物理法則自体は決定論的=可逆なのだが、初期条件、境界条件により全体としてはエントロピーが増大する=不可逆である、ということになる。
量子力学に関しても、議論が存在する。量子力学はシュレーディンガー方程式という決定論的=可逆な系の発展と波動関数があり、波動関数における収束を実在と捉えるのか、推論と捉えるのかによって解釈が異なってくる。
まあ、物理学であればその辺りの話を議論しても良いとおもう。しかし生物学(特に進化を想定している)や社会科学などは、裁判に誤審があるように、完全に認識論的なものでは無いだろうか。とするとそういった領域においては、ジェインズ的な考え方が正しいようにおもう。もちろん全てが数値化できるわけではないが、原理原則としてそういうことなのだとおもう。
