なぜ社会には不条理が存在するのか

我々が生きる社会にはさまざまな不条理がある。貧富の差、冤罪、差別、犯罪被害などなど。なぜそのようなことが起こるのだろうか。ここでいう不条理とは社会的な不条理、つまり人的に作られた不条理であり、自然災害などによる被害などは基本的には社会的な不条理には入らない。このような社会的な不条理は、意図する意図しないに関わらず、人的に作られた不条理であるということを理解することが大切だ。

では人的に作られた不条理というのはどういうことかというと、人間が作った社会制度の帰結として社会における不条理が生じてくるということだ。社会制度とは教育制度、法律、資本主義、(法律の基礎となっている)基本的人権という思想、裁判制度、官僚制度、政治機構などなどが挙げられる。

我々は資本主義が正しく、基本的人権が存在するという思想を植え付けられてきた。当然ながら、それは自然における真理でもなんでもなく、人間が思想、社会制度として作り上げて、教え込んできた(教育してきた)ものだ。この教育のおかげで私たちはそれらを当然のものであると考えているが、そんなものは過去の人たちが作り上げた単なる思想、社会制度でしかない。

教育というと聞こえが良いが、教育と似た概念で教化(indoctronation)という考え方がある。教化とはある思想を絶対的なものとして刷り込むことであり、例えば、カルト宗教の教えなどがそれにあたる。洗脳にも似ているが、洗脳はそれまであったものを消し去り、新しい思想を刷り込むのに対して、教化は最初から思想を刷り込む。教育と教化は似ていて非なるものだ。教育は自ら考える力を養うためのものだが、教化は自ら考える力を削ぎ落とし、思想を刷り込むだけだ。

基本的人権というといかにも人道的で正しいように思うし、資本主義も過去には共産主義との対立の中で語られてきたので、いかにも正しいもののように思えるだろう。しかし誰もがそれらを疑わないとなると、それらは教育の産物ではなく教化の産物ということになる。

では例えば、資本主義を正しいものだとしつつ、世界の人口の2%が世界の富の50%以上を所有する一方、貧困に苦しむ人たちがいる、という不条理はどのようにして生じてくるのか。社会制度の思想的基盤は社会学、経済学、政治学、教育学などといった社会科学である。これを考えることでなぜ不条理が生じてくるのかがわかる。少し物理学、生物学などといった自然科学との対比の中で考えてみよう。自然科学は自然を研究するが、ニュートン力学、相対性理論、量子力学、統計力学などといった自然科学の基礎理論は自然を正しく反映しなければならない。そして航空力学、電気工学などといった工学(エンジニアリング)は自然科学の基礎理論を正しく反映しなければならない。そして飛行機、スマホといったプロダクトは航空力学、電気工学などといった工学(エンジニアリング)を正しく反映しなければならない。そしてこれらが全て正しく反映されていると、そういったプロダクトは自然の中で問題なく使える。

ここでいう「正しく反映」というのは帰結が前提を逸脱しないことをいう。逆に、もし帰結が前提を逸脱することがあると、そのようなプロダクトは自然の中で事故を起こしてしまう。例えば、自然界に重力があるのに、物理の基礎理論が重力はないといったり、物理の基礎理論が重力があるといっているのに、航空力学が重力を無視したり、航空力学は正しいのに飛行機のデザインが航空力学を無視したりするように、どこかで帰結が前提を逸脱すると、そのような飛行機(プロダクト)は自然の中で使用した時に事故を起こしてしまう。

帰結が前提を逸脱しないというのを砂時計の形で表す。これを砂時計の砂が上のガラスから下のガラスに落ちる際に、下のガラスの外に落ちないということを逸脱がないというアナロジーとして考える(下記図)。

今この考え方を社会科学、社会制度に当て込むと、自然科学が自然世界を研究するように、社会科学は人間(社会)を研究する。つまり社会科学の基礎理論は人間(社会)を正確に反映していなければならない。そして教育学、経済学、法学、政治学、社会学などといった社会科学の応用理論は会科学の基礎理論を正確に反映していなければならない。そして教育、経済、法律(裁判)、政治、社会政策などといった社会制度は教育学、経済学、法学、政治学、社会学などといった社会科学の応用理論を正確に反映していなければならない。これらがすべて成立したときにそのような社会制度は私たちが不条理を感じるものではなくなる。

しかしこのどこかで問題が生じたときに社会制度は私たちにとって不条理を引き起こすものとなる。例えば、従来の経済学(基礎理論および応用理論)は人間は合理的な動物であると定義する(正確にはもう少しさまざまな前提が存在する)。その結果作られたのが資本主義だが、私たちは合理性だけで生きているのではない。感情だってある。だからこそ多くの人が資本主義に不条理を感じる。法律に至っては、私たち人間は「誰でもない人」と定義され作られている(これは自由主義と呼ばれる思想だ)。これだけでも間違いなのだが、さらには社会制度が正しく運営されていない可能性もある(仮に法律が正しいとしてもーまああまり正しいとも思えないがー、それが適切に運営されていなけば、私たちは社会の中で不条理を感じることになる)。ゆえに冤罪などが生じてくる。

人間(私たち)、社会科学の基礎理論(人間とは何か)、応用理論(法学、教育学、経済学、政治学など)、および社会制度(法律、教育、経済制度、政治制度)のどこか一つでも前提から帰結の逸脱が生じた時に、実際の人間(私たち)と社会制度の間に亀裂が生じ、私たちはそのような社会制度に違和感、不条理を抱くことになる(下記図)。納得ができないと感じるのだ。この納得ができないというのが私たちの感じる不条理の本性だ。たとえ他人から見て、不平等でも自分さえ納得できればそれは不条理ではない。

そして残念なことに現状では人間、基礎理論、応用理論、社会制度の間の全てに逸脱が見受けられる。社会における不条理を取り去るにはパッチワーク的な解決策ではなく、根本的に社会科学、社会制度、そしてその運用を見直す必要がある。そしてその際に最も重要なことは従来の社会科学で見落とされてきた、人間(私たち)とはどのようなものか、という視点だろう。これを見落としてきたから、社会制度が血の通わない社会制度となってしまっている。そして実際にこの世界を生きる私たちはそのような血の通わない社会制度に不条理を感じるのだ。

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