生きることと良く生きること

この記事は『本当の声を求めて:野蛮な常識を疑え』の内容を前提としています。

生きることに意味はあるのか。おそらくこの問いは近代(モダニティ)を生きる私たちに特有の問いなのではないだろうか。近代に入り、事実と価値、主観と客観が離別し、世界は意味を内包しない存在となった。事実と価値、主観と客観が離別した近代の観点からは意味は私たちが客観的で無意味な世界に「投影」する主観でしかない。社会学者マックス・ウェーバーはフリードリッヒ・シラーの言葉を借りてこの状態を「魔術の溶けた(disenchanted)」時代と表現した。近代に入り、「客観的」科学は発展したが、価値はすべからく主観的なものである以上、良さに基づく徳倫理は成立しなくなった。ゆえに倫理、政治哲学において社会契約という考え方が必要となった。そしてその結果成立したのが基本的人権などといった正しさ(公平性)に基づく倫理である。しかしこのような倫理は何が良い人生かを教えてくれない。

しかし古代、中世においては生きることに意味はあるのか、などということは愚かな問いであったのではないだろうか。プラトンは『国家』に登場するソクラテスに「いかに生きるかが問題だ」と語らせるが、一度いかに生きるかが決まってしまえば、自分の人生に意味を持たせられるかどうかは自分次第だ。自分が心の底から本当に納得した価値観(良さ)に忠実に生きることができれば、自分の人生には意味があるのだ。自分が心の底から本当に納得できる価値観を見つけられなかったとしたら、空っぽな人生だろう。もしそのような価値観を持っていたとしてもそれに忠実に生きられなかったとしたらそれもまた苦しく悲しい人生だろう。自分の持つ価値観に忠実に生きていないにも関わらず、苦しみを感じないならば、軽薄な人生だろう。良さを求めることは快楽主義ではない。

アリストテレスは生きることと良く生きることを分けた。目的論的な思考(XはYのために存在する、という考え方)を持っていたアリストテレスにとっては全てのものに良さが内在しており、何かが存在すれば、良い何かも存在する、というのは当然のことだったのだろう。酒があれば良い酒もある。ただの酒は酔うためだけのものだが、良い酒は美味しい酒、親しい人との酒などだろう。生きることも同じだ。ただ生物としての必要性を満たして生きる人生も人生ではある。ただもっと満ち足りた人生、自分が納得できる人生を生きることが良く生きることであり、それが意味のある人生なのだ。

このアリストテレスの考え方はマルティン・ハイデガー、ハンナ・アーレント、ピエール・ブルデュー、チャールズ・テイラーらの思想家に色濃く引き継がれている。アリストテレスの考え方をざっくりと言えば、生物としての必要性を満たすための存在、つまり経済活動を行う場所としての家(オイコス)が存在し、生物としての必要性が満たされたならば、都市(ポリス)に出て民主的な活動や文化、芸術活動を行うというようなものだろう。ハンナ・アーレントはゆえに、それまでの経済学で同一視されていた労働(labor)と仕事(work)を区別し、労働は生物としての必要性を満たすための経済活動であり、それは消費されてしまうものであると考えた。アーレントにとって仕事は芸術作品や思想のように消費されることなく、作成者の生命を超えて生き続けるものなのだ。ピエール・ブルデューもまた通常経済学が考えてきた資本、経済的資本(および人的資本)だけでなく、文化的資本、社会的資本というものが存在すると考えた。やはり考え方はアリストテレス的であり、ピエール・ブルデューは経済的資本が満たされて初めて文化的な活動ができると考えた。

このように考えると消費されてしまう人生よりも消費されない人生が良い人生であるということになる。

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