心はどこにあるのか。この問いに対して、近代哲学の父であるデカルトは心は物理世界とは別カテゴリーの存在でありこの物理世界には存在しないが、なんらかの方法で物理世界と繋がっていると考えた。一方、現代を生きる私たちの常識は心は脳に存在する、というものではないだろうか。認知症やアルツハイマーなどの病理を見ると、脳が破壊されると心も破壊されるようだし、心が脳に存在するというのは至極当然のように思われる。しかし心の哲学や認知科学、認知心理学、神経科学、文化人類学などの理論の中には、心は脳だけでなく、世界の中に拡張しているという理論が存在する。これはどういうことなのだろう。このような理論は分散化された認知(distributed cognition)、局在化された認知(situated cognition)、拡張された心(the extended mind)などと呼ばれる。このような理論の中で最も理論的に明快なのがアンディー・クラークの「拡張された心」だろう。認知科学、認知心理学、神経科学、文化人類学からの議論はどちらかというとエンピリカルなデータからの議論であり、そういったデータを理論にまとめたのがクラークの「拡張された心」という理解で良いと思う。
1998年にアンディー・クラークとデイヴィッド・チャーマーズによってオリジナルの論文が出版され、その後アンディー・クラークによって様々な事例が論じられてきた。「拡張された心」という考え方は哲学者メルロ=ポンティやハイデガーに影響を受けているという考え方もあるが、そして実際にそうなのではあるのだが、基本的に「拡張された心」という考え方はメルロ=ポンティやハイデガーらの大陸系哲学の理論的延長と見るのではなく、分析系心の哲学の理論的延長と見るべきであると思う。これを最初に私に指摘してくれたのはニューヨーク大学(NYU)の哲学者ネッド・ブロックだった。彼のオフィスで話した時に、デイヴィッド・チャーマーズも実際にそう書いてるしね、という感じで教えてくれた。そしてメルロ=ポンティやハイデガーら現象学の研究者であるコロンビア大学の哲学者テイラー・カーマンもその著書『メルロ=ポンティ(Merleau-Ponty)』の中でクラークの関心領域、理論の中心は現象学に関するものでなく、認知科学に関するものであると言っている。
ではクラークの「拡張された心」の理論はどのように理解すれば良いのか。まず前提条件として、現在の認知科学(認知心理学、神経科学、コンピュータサイエンス、文化人類学、言語学、教育学、哲学)は心の哲学の理論である「(心の)機能主義」という考え方に基づいている。認知科学はそれ以前の心理学のパラダイムである行動主義を覆し、アブダクション(最良説明への推論)によって構築されたものであり、機能主義を否定することは上記の関連分野(およびその関連分野)を全て否定することになってしまう。前提条件を受け入れた上で、端的に言うと、機能主義の考え方は心は脳の機能である、ということになる。脳がハードウェアであり、心がソフトウェアである、ということである。
機能主義には弱い機能主義と強い機能主義というものがあり、弱い機能主義は意識に関しては機能主義が成立するかどうかわからないがそれ以外の心に関しては機能主義が成立すると考える立場であり、強い機能主義は機能主義は意識も含めて心のすべてを説明できると考える立場である。「拡張された心」は弱い機能主義に基づいている。ここで「機能」ということを考えてみると、その特徴は機能は物質に関わらず実現されるという点にある。例えば、「座る」という機能、つまり椅子を実現させるためには材質は木であっても、プラスチックであっても、鉄であっても、なんでも良い。
もちろんこれが人工知能の考え方の根底にある。ハードウェアがニューロンでもシリコンチップでも心のアルゴリズムさえ実現させることができれば、知能は実現されることになる。つまり機能主義という大前提を受け入れた上で、ではそのアルゴリズムはニューラルネットワークなのかどうなのか、などの具体的な議論が行われる。
逆を考えてみるならば、手計算の際に使う紙と鉛筆などが脳も含めて機能的な思考のループを形成しているとすると、紙と鉛筆なども私たちの認知機能の一部ということになる。実際、私たちの心(脳)には二つの領域があり、心理学者ダニエル・カーネマンはそれをシステム1、システム2と呼んだが、システム1は無意識な心、システム2は意識的な心である(ここではざっくりとした説明を行うので、この辺りの詳細は『本当の声を求めて:野蛮な常識を疑え』を呼んでほしい。実際には意識と認知の問題はもう少し複雑である)。無意識な心であるシステム1はアフォーダンスという形でオペレーションを行う。アフォーダンスは身体と外部世界のインターアクションであり、外部世界は心、身体から切っても切り離せない関係にある。心が脳と身体を超えて、外部世界に拡張されているというと少々衝撃的だが、それは私たちが心は脳にあるという常識に縛られてしまっているだけの話なのだ。
ざっくりとだが、システム1は無意識な心、システム2は意識的な心であるということは、身体はシステム1、つまり無意識の心ということになる。身体が心というのはどういうことなのだろうか。これは少々パラドキシカルに感じるが、これもやはり心が脳にあるという常識に縛られてしまっている。記憶が存在するためにはなんらかの記憶痕跡(memory trace)が必要になる(記憶が増えるためには、世界の何かが変わらなければならない)。では記憶痕跡がどこに存在するのかというと、機能主義の観点からは、必ずしも脳内でなくても良いということになる。それは外部世界かもしれないし、身体かもしれない。この無意識の(何度も言うように、この意識という語の使い方は不正確である)記憶が身体(性)なのである。これが拡張現実(augmented reality)やインターアクションデザインの基礎となる。
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