社会の中に秩序はどのように生じ、どのように維持されるのか。社会秩序の発生、維持は社会科学の主要テーマの一つであるといって良い。政治学(政治哲学)、経済学、社会学、文化人類学、教育学などはある意味全て社会秩序の発生、維持に関する学問であるといっても過言ではない(進化生物学もある意味秩序の発生と維持に関する学問であると言える)。そもそも世界の中に秩序が生じるためにはその世界(系)が熱力学的に開いていないといけない。社会はこの意味では開いた系である。ではそのような開いた系の中でどのように秩序が生じるのか。
経済学は基本的には人間の経済行動の分析であり、言い換えるならば、経済領域における人間行動の説明、分析であると言える。経済学の祖と言われるアダム・スミスはトマス・ホッブズ以降の近代政治哲学の伝統の中での中心的課題である、社会の中に秩序はどのように生まれるのか、という問題系に、ホッブズ以降主流であった契約理論でない形での秩序の発生と維持の可能性を示した。
ホッブズ以降の近代政治哲学は基本的に社会契約理論と呼ばれる思考実験に則っている。(思想家により差異はあるものの)基本的な考え方はまず社会が存在する前には自然状態と呼ばれる秩序のない状態が存在する。自然状態では秩序が存在しないので(そして食料といったような資源には限りがあるので)、万人の万人に対する闘争が生じることになる。自然状態では、いつ何時襲われるかわからないといったように、人間は安定した生活を送ることができないため、人々は政府と(もしくはお互いに)社会契約という契約を行い、自らの復讐権などといったものを政府に委譲することで人間は万人の万人に対する闘争状態にある自然状態を脱し、秩序のある社会が成立することになる。このようにして成立してきたのが自由主義と呼ばれる近代思想であり、基本的人権などと呼ばれる個人の自由の保障である。この思想に基づいて近代国家の憲法や法律は構築されている。もちろんこれは全て思考実験であり、歴史上実際にこのような契約が存在して社会が成立してきたわけではない。基本的人権などといった社会のルールを決める上でどのようなルールであれば私たちは同意(契約)することができるのかという思考実験である。
『リヴァイアサン』におけるホッブズの契約理論は個人の自由を最大化させることがゲーム理論における(ナッシュ)均衡になるような契約であるという分析もある。つまり近代政治哲学の主流派によると社会秩序の生成と維持は社会契約のようなもの、つまりある程度大きな政府の存在、が必要であるということになる。均衡というのは非常に安定した状態である。ゲーム理論は基本的にプレイヤーが複数存在する時に均衡点を正確に見つけ出そうとするものである。ナッシュ均衡とは複数のプレイヤーが存在し、複数の立場、主張が存在する時に、プレイヤーが自らの立場を変えても、誰もそれよりも良くならない状態を指す。
一方、アダム・スミスは最低限の政府(ルール)やインフラストラクチャーが存在しさえすれば、各々の人間が個人の良いと思うものを追い求めれば、つまり個々人が利己的に行動すれば、社会の中に秩序が生まれ、秩序は維持されると考えた。つまり社会は(ナッシュ)均衡に落ち着くということになる。これが経済学の最も核となる思想であり、最低限の政府(ルール)やインフラストラクチャーの存在は必要なものの、社会契約論とはかなり異なる思想である。では個々人が利己的に行動すれば、どのように秩序は生まれ、維持されるのか。市場においては需要と供給という二つの変数が存在し、需要が増えれば価格は下がり、供給が歩得れば価格は上がる。この二つの変数が交差する点が均衡点である。経済学の主流である新古典派経済学は比較優位という概念を考えだしたデイヴィッド・リカルドがアダム・スミスの思想を解釈したものに基づいた思想であり、リカルドはスミスとは異なり哲学者ではなかったので、スミスの哲学的な部分を落とすことにより今日の「経済人」という完全に合理的な人間像が出来上がった(リカルド自身はビジネスマンであり、比較優位の考え方に基づいて巨万の富を得た)。経済人が最低限の政府(ルール)やインフラストラクチャーに守られた市場で利己的に行動すれば(そして完全な情報を持っており、私たちの欲求が一つの尺度で測れるとすると)、需要と供給により均衡という秩序が発生し、維持されるということになる。
もちろんこの考え方には大きな問題があり、まず第一に私たちは経済人などという完全に合理的な存在ではなく、感情を持った時には非合理な存在であるという点にある。つまり経済人という前提は多くの場面で正しくない。この指摘から生じた学問が心理学から生まれた行動経済学である。行動経済学は基本的に「経済人」という完全に合理的な人間像(前提条件)を取り去った状況での人間の経済行動を理論化しようとする学問である。これは1947年にハーバート・サイモンが提唱した「限定合理性(bounded rationality)」を前提とした考え方である。従来の経済学は合理性を前提としており、当然複数のプレイヤーが存在する場合の均衡点の発見は合理性(合理選択)を前提としたゲーム理論によってなされる。しかし行動経済学の観点からは合理選択はあまり適切でない前提だろう。
興味深いことに、行動経済学への貢献でノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セラーらの研究から、合理選択によるゲーム理論を用いた社会契約では基本的人権などといった公平性の原理ー秩序ーに必ずしも辿りつかないことが判明している。しかし進化理論を導入した進化ゲーム理論を用い、シンプレックス法というオペレーションズ・リサーチの手法でシミュレーションを行うと、往往にして公平性の原理に辿り着くこともわかっている(このシンプレックスが進化ゲームの系、つまりフェイズスペースである)。つまり政治哲学と経済学の両方に関して完全合理性という前提を見直す必要があるということになる。つまり公平性という秩序および均衡という秩序の出現、維持の説明には限定合理性および進化の概念が必要になるのかもしれない。
進化という概念は集団(この場合社会)を前提としている(当たり前だが、そうでなければゲーム理論は適用できない)。とするとゲーム理論が政治哲学、経済学、進化理論を記述する適切な言葉ではないだろうか。すると進化ゲーム理論が様々な状況を統一的に記述する新しい(それほど新しいわけでもないが)言語であるということになる。当然ながら社会契約論は思考実験であり、実際の社会の進化を記述したものではないし、経済学も経済の合理的再構成であり、実際の社会の進化を記述したものではない。そして社会科学の大前提には良さに基づく人間観が存在する。この辺りはまだまだ考えなければならない点である。
