アブダクション

アブダクション(abduction)とはプラグマティズムの哲学者チャールズ・サンダース・パースによって提唱された概念で

驚くべき事実Yが発見された

しかしもしXが真実ならばYは当然のことだろう

ゆえにXが真実であると考える理由がある

という形式の推論である。アブダクションは結論から言うと帰納法(の一種)である。推論形式には演繹法と帰納法の二種類しか存在せず、論理学および数学が用いるのが演繹法、科学が用いるのが帰納法である。「全てのカラスは黒い」などといった前提(公理)から「ゆえに次に見るカラスも黒い」と推論するのが演繹法であり、「このカラスも黒いし、あのカラスも黒い」などといった個別具体的な事象から「ゆえに全てのカラスは黒い」と推論するのが帰納法である。演繹法の場合(ユークリッド幾何学が全てではないとわかった時のように)前提(公理)もしくは推論(証明)過程に間違いがない限り結論には間違う可能性はないが、帰納法はサンプル(標本)から母集団を推論するので当然間違う可能性がある。科学は誤る可能性があるのだ。この帰納法のサンプル(標本)と母集団の間の論理的な乖離により科学は必然的に誤る可能性があるという問題は17世紀のスコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームにちなんでヒュームの帰納法の問題と呼ばれる。演繹法と帰納法はそれぞれ論理的(ロジカル)と経験論的(エンピリカル)と言い換えても良い。

ちなみに統計学は往往にして応用数学に分類されるが、帰納法を用いるので厳密には数学ではない(そして数学的帰納法は演繹法である)。全ての(現代的な意味での)数学は公理系から出発し、推論(証明)を経て定理や補題に至るが、統計学は全くもってそうではない。これはフィッシャーの統計学を見れば、統計学がいかに道具的であるかを見ることができるだろう。そしてこの統計学は厳密には数学ではないという事実はフィッシャーの考えだした尤度という概念は、厳密には確率ではないという事実と呼応する。尤度は確率の公理を満たさない。

今、帰納法を「このカラスも黒いし、あのカラスも黒い」などといった個別具体的な事象から「ゆえに全てのカラスは黒い」と推論すると説明したが、実はこれは枚挙的帰納法と呼ばれるもので、おそらく20世紀初頭に論理実証主義者あたりによって帰納法の定義とされたのだと思うが、枚挙的帰納法には観察の理論負荷性(theory ladenness)と呼ばれる問題がついてまわる。理論負荷性とは何かを観察するためにはまず何らかの理論を必要とするという問題である。カラスを見て、なぜ「カラスは黒い」という仮説を思いつくのか。実はまず「カラスは黒い」という仮説がないとカラスを見て「このカラスも黒い」と考えることはできない。端的に言って枚挙的帰納法は不可能なのだ。

ではこの観察の理論負荷性による枚挙的帰納法の問題はどのように解決されるのか。論理実証主義者カール・ヘンペルおよび反証主義を提唱したカール・ポパーはこの問題は仮説演繹法によって解決できると考えた。私たちはまず仮説を持っており、その仮説から帰結を演繹し、その演繹結果(予測)が観察と一致した時に仮説は確証(ポパーはcorroborationという言葉を使ったが、現在ではconfirmationで統一されている)されるということになる。ゆえに、私たちはまず「全てのカラスは黒い」という仮説を持っており、その仮説から演繹される予測は「次に見るカラスも黒い」であり、観察の結果、次に見たカラスも確かに黒ければ、「全てのカラスは黒い」という仮説は確証されたということになる。

しかしここにも一つの問題が存在する。仮説自体はどこからくるのか、という問題である。実はこの仮説演繹法という考え方の背景には論理実証主義者ハンス・ライヘンバッハによって提唱された「仮説の発見過程」と「仮説の検証過程」という区別が存在する。ヘンペルも反証主義者であったポパーもこの区別を踏襲した。ヘンペル自身仮説の発見は「幸福な当てずっぽう(happy guesses)」であると考えていた。そしてフィッシャー自身もそのような名前で読んだかどうかは定かではないが、「仮説の発見過程」と「仮説の検証過程」という区別を想定していた。フィッシャーの考えだした尤度は仮説を想定した時の確率であるから、当然仮説はすでに想定されていなければならない。

しかし仮説の発見が「幸福な当てずっぽう」であるわけはなく、当然このような考え方は問題となる。ここでアブダクションが登場する。従来の理論家たちが見逃してきた仮説の発見こそがアブダクションである。アブダクションは「仮説の発見過程」と「仮説の検証過程」という区別を明確に否定する。1965年にプリンストン大学の哲学者ギルバート・ハーマンがアブダクションを「最良説明への推論(Inference to the Best Explanation, IBE)」と名付けた。ハーマンはIBEを明確に枚挙的帰納法と対比する。IBEは枚挙的帰納法でない帰納法なのだ。ライヘンバッハが「仮説の発見過程」と「仮説の検証過程」という区別を提唱した背景にあったのは、「仮説の発見過程」は心理的なものであり主観的、非合理的なもの、「仮説の検証過程」は科学的なものであり客観的、合理的なものという考え方が存在した。つまりそこには客観と主観、事実と価値、「である」と「であるべき」の区別が存在するのだ。

しかしパースらのプラグマティズムの思想ではそのような区別は存在しない。「最良説明への推論」の「推論」の部分は帰納法であるが、それは「最良(good)の説明」という価値によって推進される帰納法推論なのだ。ここが論理実証主義、反証主義などといったいわゆる分析系哲学とプラグマティズム(および大陸系哲学)の分かれ道である。分析系からプラグマティズムに移行したヒラリー・パトナムが言うように、認知的価値もまた価値なのだ。そしてこのパースのアブダクションという仮説発見の理論に影響を受けたのが日本の統計学者赤池弘次である。フィッシャーの統計学は、仮説検証(有意検定)と推定(最尤推定、尤度を最大化すること。もしくは点推定とも)に分かれ、その両方が尤度に基づいている。すでに見たように尤度は「仮説の発見過程」と「仮説の検証過程」という区別を想定している。しかし回帰分析や時系列分析において仮説検証と推定という区分および「仮説の発見過程」と「仮説の検証過程」という区別は必要ない。回帰分析や時系列分析は仮説検証であると同時に推定であり、「仮説の発見過程」であると同時に「仮説の検証過程」である。こうして赤池はフィッシャーの考えだした(最大)尤度の概念を(情報理論におけるカルバック・ライブラー情報量に基づいて)拡張させ赤池情報量基準(AIC)を提唱した。

そしてアブダクションはジェローム・ブルーナーらの考える物語とも呼応する。物語も究極的には「最良説明への推論」への推論である。

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