『本当の声を求めて:野蛮な常識を疑え』では、認知科学(および認識論や科学哲学)について、特にジェローム・ブルーナーの考えを含めていくつかの変更を提案した。認知科学は少々「認知的すぎる」のではないだろうか。人間の生活(思考)には広大な非認知的領域が存在するが、伝統的に哲学者はデカルトやカント以来、そして心理学者ですら、その領域をずっと無視してきた。カントの『純粋理性批判』はその典型的な例であり、この考え方はウィトゲンシュタインの初期の著作『論理哲学論考』の有名な命題「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」に結晶化した。このカントに起因する広大な非認知的領域に対する無視(無知)は、論理実証主義(検証主義)における「認知的無意味さ」という奇妙な定義をもたらした。そして論理実証主義は科学哲学の基礎となったので、結果として科学哲学全体を歪めることとなった。
非認知的領域の重要性は、ハイデガーやメルロー=ポンティなど現象学や批判理論(特にピエール・ブルデュー)によって復活した。ブルデューはメルロー=ポンティに関する未完の博士論文を書き、人類学者・社会学者となった。彼の著作『ディスタンクシオン:嗜好の社会的批判』は、カントの『純粋理性批判』への批判である。最近では、ダニエル・カーネマン(およびエイモス・トヴェルスキー)が非認知的領域を探求した。
ブルーナーが主導した認知革命は、心理学に「意味」を取り戻した。彼が「1940年代に心理学者であるということは奇妙なことだった。我々はネズミを研究していた」と言ったように奇妙な行動主義という状態から本当の人間の心理学、すなわち認知心理学へと移行した。ブルーナーは意味の製造機である物語の重要性を強調した。そして彼の教育理論は物語に大きく基づいている。確かに物語および意味は重要だが、人間心理にはさらに大きな側面がある。それは「実践」であり、陳述記憶(知識としての「何を知っているか」)ではなく、非陳述記憶(技能としての「どうやって行うか」、ノウハウ、ハビット記憶)である。これは語ることができないものである(語れないものこそ「どうやって行うか」の定義である)が、確かに存在する。ブルデューの思想の中核概念の一つがハビタスであるのはこういう理由による。
科学哲学や認識論、および心理学ですら、この側面を長い間無視してきた。その結果、語れるもの、つまり論理にのみ焦点を当ててきた。『純粋理性批判』は論理(純粋理性)に関するものであるし、『論理哲学論考』も論理に関するものだ。そして論理実証主義も論理に関するものだ。しかし現実の世界(科学)は実践に満ちている。したがって、純粋に論理的な分析は現実を完全には分析できず、さらにいうなら、現実の理解を歪めることにすら繋がる。そしてこれが現場の科学者たちが科学哲学を嫌ったり(あるいは完全に無視したり)する理由の一部だと思う。この科学哲学における「哲学」とは何を意味するのかを考えていたが、次の結論に至った。それは「論理的分析」や「合理的再構成」ということではないだろうか。
