意識、自由意思など

意識とはなんなのか。これはまだ誰にもわかっていない。意識の研究をするデイヴィッド・チャーマーズによると意識の問題は「イージー・プロブレム(簡単な問題)」と「ハード・プロブレム(難しい問題)」の二つに大別される。イージー・プロブレムは基本的には脳神経と意識の相関、NCC(Neuro-conscious correlate)の問題であり、ニューロサイエンスの分野の問題である。例えば、意識がある時に脳のどの部分が活性化しているのかをfMRIなどを使って調べることで、脳のどの部分が意識に関係あるのかがわかる。もちろんイージー・プロブレム(簡単な問題)とはいうものの、これも大変難しい問題なのだが、これはハード・プロブレム(難しい問題)に比べたらイージー(簡単)である。ハード・プロブレムは脳という客観的な(物理的な)物質からどのようにして意識という主観的なものが生じてくるのか、という問題である。定義上、客観と主観は交わることがない。とすると意識という主観的なものが物理的な物質から生じてくるのか、というのはどのように考えれば良いのかすら見当がつかない。

この主観と客観の二律背反の関係性により、デカルトはこの世界には心(主観的なもの)と物質(客観的なもの)という二つの実体(カテゴリー)が存在すると考えた(デカルト的二元論)。そしてそれらはなんらかの方法でつながっている、ということになる。しかしデカルトはそれらがどのようにつながっているのか、説明することはできなかった。デカルトの時代から少し時代が下りニュートン力学が発見されると、ニュートン力学(物理学)は世界のすべてを説明することができる法則であるので、心という実体(カテゴリー)は存在しないといメタ

フィジックス(形而上学)だが、一元論、つまり物理学的世界観ではメタフィジックスは原理上、フィジックス(物理学)と等しいということになる。

このような考え方を突き詰めると意識は(自分たちが存在していると思っているだけで)存在しないというような話になる。この関係性は物理学と自由意思の関係性と似ている。ニュートン力学(物理学)はいわゆる決定論的世界観、つまり宇宙の始まりから終わりまですべてすでに決定しているという考え方である。ニュートン力学が相対性理論に置き換わってもこの決定論的世界観は保持される。とすると、この世界には私たちの自由意思など存在しないことになる。ニュートン力学、相対性理論をまとめて古典力学というが、古典力学に代わり出現した量子力学は(どのように解釈するのかにもよるのだが)、決定論的ではないと(確率的である)いう考え方がある。では世界の中に確率が存在すると自由意思という概念が救われるのかと言えば、それはわからない。確率をランダムさと考えるならば、自由意思はランダムさではないからだ。自由意思にはある種の一貫性がある。

ニュートン力学が決定論的な世界観であるということは、原理上ある時点tでの初期条件をニュートン力学の運動法則に入力してやると、未来を完全に予測できることとなる(ニュートン力学は時間に対して対称なので、過去も完全に予測できることとなる)。しかしのちにわかったのだが、実際には決定論的カオスと呼ばれる問題が存在し、微小な初期条件の差によって、系(世界観)が決定論的であっても、予測が不可能になるという問題が存在する。もしかしたらコレが自由意思の感覚に関わっているのかもしれない。

では意識は存在するのか。存在すると考える人もいるし存在しないと考える人もいる。存在するとしてもそれは脳の物理学的、生化学的な状態によって還元説明されると考える人もいるし、現在の物理学は意識を説明できないと考える人もいる。私自身は議論の前提となっている主観と客観という二律背反の前提が怪しいと思っている。

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