別の記事で述べたように社会における秩序の出現と維持に関しては大きく分けて近代政治哲学の伝統である契約理論と経済学の考え方がある。契約理論の系譜で(理論的に)最も重要視されているのはアメリカの哲学者ジョン・ロールズの考え方で、自由主義(リベラリズム)と呼ばれ、政府による平等さの保証を重視する考え方である。この考え方によると、貧富の差は政府による再配分を通して解消されなければならないことになる。一方、経済学の立場からは最低限の政府(法律などといったルール)やインフラストラクチャーが存在しさえすれば、各々の人間が利己的に行動した結果社会の中に秩序(経済学的均衡)が生まれ、秩序は維持されるということになる。この考え方の一形態が資本主義である。
ではどちらの仕組み(システム)によって国家の秩序を作るのか。現在、国家の仕組みに関して、経済学と自由主義の間にはテンションが存在し、どちらをどの程度まで優先させるのかに関して様々な考え方がある。自由主義を突き詰めればかなり社会主義的な国家システムになるし、経済学の考え方を突き詰めれば、資本主義になる。多くの国家はこの狭間で揺れている。資本主義は確かに秩序(経済学的均衡、ナッシュ均衡)をもたらす。ただ、それは公平ではない均衡である。実はロールズは合理選択に基づくゲーム理論的な観点から社会のルールは(ナッシュ)均衡に落ち着き、それこそが平等さ(公平さ)である、と論じたが、実際には合理選択に基づくゲーム理論では複数の公平ではない(ナッシュ)均衡に落ち着く可能性があることがわかっている。これは最後通牒ゲームと呼ばれるゲームなどで見られる現象だ。
最後通牒ゲームでは(単純なシナリオでは)二人のプレイヤーがおり、100ドルを二人で分ける。この際、一人が100ドルをどのように分けるかオファーをし、そのオファーが受け入れられれば、その通りに100ドルを分ける。そのオファーが受け入れられない時は、二人とも1ドルも貰えないことになる。50ドルと50ドルというのがロールズの考える公平性というナッシュ均衡であるが、もしもオファーをするプレイヤーが99ドルを自分が取り、相手は1ドルと言ったらどうだろう。1ドルは0よりも良いので、これもまたナッシュ均衡となる。つまり合理選択に基づくゲーム理論的な観点から複数の公平でないナッシュ均衡が存在し、そのどれにシステムは落ち着くかわからないということになる。
そして資本主義のもたらす秩序もまたまさにこのようなナッシュ均衡である。ナッシュ均衡とは複数のプレイヤーが存在し、複数の立場、主張が存在する時に、プレイヤーが自らの立場を変えても、誰もそれよりも良くならない状態を指す。つまり資本主義の中で弱者は資本主義のもたらす不公平な状態に耐え続けなければならない。漫画でいうなら、のび太がジャイアンの暴力に耐えなければならないような状態である。そしてその結果が、世界人口の2%が世界の富の大半を所有する一方で、その日食べるものもない人間がいるという世界だ。しかし、窮鼠猫を噛むではないが、弱者であってもそれ以上後がなくなり下がることができない場所に追い込まれたら、前に出るしかなくなる。こうして出来上がってきたのが、ヤクザなどといった存在であり、ジョーカーだ。後がなく、失うものがない人間は無敵なのだ。それがヤクザの力の源泉であり、ジョーカーの力の源泉である。殺しの軍団として恐れられた柳川組は、元々は乞食ヤクザとして知られていたが、「どうせ失うもんは命だけや」と言ってたったの8人で100人を超える酒梅組鬼頭組に殴り込みをかけ勝利した。
こうして弱いものがさらに弱いものを叩く社会が生じる。時代が下っても、今起こっていることは何も変わらない。ヤクザが闇バイトに変わった程度のことだ。しかしこれは政治哲学が契約理論を用いてそこから抜け出そうとした自然状態そのものなのではないか。弱いものたちが夕暮れ、さらに弱いものを叩くとき、その音が響き渡れば、未だ無敵ではない私たちも不条理を感じ、ブルースを加速させる。そして未だ見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる。もしも私たちが無敵になってしまったら、私たちは不条理や鬱憤を解消するためのブルースではなく、本物の銃を撃つ。さて、この状態を抜け出すためにはどうすれば良いと思うだろうか。世界人口の2%が世界の富の大半を所有する一方で、その日食べるものもない人間がいるという世界を見て「それが資本主義ということだ。別に違法に稼いだ金ではない」などという大人たちに褒められるようなバカの常識的な回答ではなく、あなたの本当の声を聞かせてほしい。
