恩師が生涯研究し続けたテーマだったので、教育、特に学校外での教育ということを考えてみたい。
多くの人たちにとっては、教育といえば学校ということになるだろう。しかしこれは当然ながらとても狭い考え方だ。教育は非常に捉え難い抽象的な概念だからここの場面で、これは教育であり、これは教育ではないということは大変難しい。全く同じことであっても、時としては教育、時としては教義の押し付け、時としては虐待、時としては単なる遊び、など様々な捉え方ができるだろう。学校教育でもそれは経済活動として捉えることもできる。つまりそこには視座(どの視点から眺めるか)の問題が出てくる。
多くの人により学校が教育と同定されている理由の一つは学校が(教育)制度として大変成功したからだろう。スタンフォード大学の社会学者ジェン・メイヤーは制度理論で有名だが、メイヤーの制度理論は教育制度を説明するのに非常に有効だ。例えば、ビジネススクール(MBA)とは何なのかというと、制度理論の観点からはそれはビジネスの知識を制度として視覚化するものであるということになる。ビジネスの知識は教育と同様、非常に捉え難い抽象的な概念だ。そして別にビジネススクールに行っていなくても、MBAを持っていなくてもビジネスの知識を十分に持った人もたくさんいる。ではビジネススクールやMBAの意義とは何なのかというと、それらはビジネスの知識を持っているというシグナルであるということになる(この辺りは経済学者マイケル・スペンスのシグナリング理論を使ってもベイズ統計を使ってもそれなりに説明できるだろう)。つまりMBAを持っているということは少なくともそれ相応のビジネスの知識を持っている、ビジネスにおいて有能である、ということをシグナルしてくれる。MBAを持っていない場合は、仮にそれ以上のビジネス知識を持っていても、(それ相応のトラックレコードがない限り)シグナルは存在しないことになる。
少し高等教育の内情を探ってみると、MBAは大学にとって金のなる木だ。MBA、つまりMaster of Business Administrationは修士号であり、修士課程は大学が最も効率よく金を儲ける手段なのだ。そこで儲けた金を博士課程の学生などを育成するのに使う。そしてビジネススクールは大企業からの寄付をたくさん受け付けている(当然そういった大企業枠で学生が選ばれることになる)。では実際にビジネススクールで何をやるのかというと、基本は(コーポレート)ファイナンスであり、これこそがビジネススクールのコアだろう。あとはNYUのビジネススクールの教授か誰かが書いていたが、教授の給料を払うために、様々な選択科目がある、ということになる。まあ、それは言い過ぎにしても、当然、統計やマーケティングなどはそれを専門に行なっている博士課程の方がレベルが高い。というかそれに関してはレベルが違う。
しかしMBAはビジネスにおけるある種のライセンスのようになっている。これはなぜかというとビジネススクール自体が制度として成功したからだ。同様に、学校も教育制度として成功した。しかしよく考えてみれば、近代時国家による学校教育は、少なくとも日本の場合、明治維新後に徐々に成立してきたものだ。それ以前にも藩校などというものもあったが、基本は現行の学校教育などほんの100年ほどのものなのだ(というか近代国家自体が、19世紀、20世紀に成立した比較的新しいものだ)。それ以前にはどこで教育が行われていたのかというと、それは家族や共同体だ。
例えば、江戸時代は商人になりたいものは旦那のところで部屋住で丁稚奉公をし、商人としてのイロハを学んだ。それが明治以降、学校ということに置き換わっていった。しかし現在でも(もしくは最近まで)部屋住の伝統を残しているものもあり、例えば、吉本興業がNSCと呼ばれる芸人のための学校を作るまでは、芸人は師匠のもとに部屋住で入るものだったのだし(落語は今でもそうなのだろうか?)、相撲では親方の部屋に入って寝食を共にし、稽古をするのだし、ヤクザでも親分のもとで部屋住をし修行をする。これは完全に疑似家族、共同体による教育だ。これはトラックレコード、つまりシグナルになる。
ただ、シグナルがあると教育があるというわけではない。教育といえば学校というのは間違っているだろう。もちろん学校の役割も存在する。それは哲学者ジョン・デューイやエイミー・ガットマンらによりかなり詳細に理論化されている。続きは気が向いた時に…
