普遍文法は厳密にいうと文法ではない。それはなんらかの認知バイアスだ。なんらかの生得的な認知バイアスがあるということは基本的に証明されていると言っても良い。
学ぶ(学習)とは基本的にデータ(インプット)に基づきパターンを抽出することだ。言語で言うならば、親などが話す言葉(インプット)を聞いて、言語の文法(パターン)を抽出することだ。
しかしチョムスキーらの問題系は、データだけではいわゆる決定不全が生じてしまうということだった。決定不全とはデータはどのようなパターンとでも論理的整合性を持つということだ。
つまり、例えば、lookedという言葉を聞いてedをつけるのが過去形、という文法もありうるし、今日だけedをつけるなどといったその他の可能性も十分ありうる、ということになる。
さらに親の話す言葉は非文法もあり、子どもが聞く言葉はそれほど多くない。つまりインプットとしてのデータはサンプルサイズが小さいノイズだらけのデータということになる。
このような決定不全やデータの問題が存在するにも関わらず、子どもは言語(正しい文法)を学ぶことができる。
これはどうしてなのか。
私たちは全ての論理的可能性の空間を検索することはできない。
とすると、この検索空間(search space)はデータが入力される以前になんらかの形で制限されていなければならない、ということになる。この「データが入力される以前」というのが「生得的」ということである。
つまり論理的に考えて、私たちの脳内にはなんらかの生得的な認知バイアスがある、ということになる。これが基本的に証明されているということだ。
ではこの認知バイアスがどのようなものなのか、に関してはチョムスキー、レイコフらで異なる見解が存在し、レイコフらはチョムスキーの考え方から離脱し、認知言語学を作り出した。
