意識とは何なのか。かつて意識の研究はテニュア・キラー(大学の正教授になることを阻むものの意味。テニュアとは大学の終身在職権であり、テニュアを持った教授は理論上は死ぬまで止める必要はない。実際、あるコロンビア大学の教授は自分のオフィスで亡くなった)と言われていた。なぜならまるで何もわかっておらず、手のつけようがなかったからだ。大学教授として意識を研究したいならば、まず何か他の研究でテニュアを取った後、意識を研究しなければならなかった。
この状況が変わったのはフランシス・クリックが意識を研究し始めてからだ。クリックは元々物理学者だったが、(分子)生物学に転向後、ジェームズ・ワトソンとともにDNAの二重螺旋構造を解明しノーベル賞を受賞した。ノーベル賞を受賞した学者にはたくさんの助成金が給付されるし、基本的に好きな研究ができる。ワトソンは心(心理学、認知科学、神経科学、コンピュータサイエンス)の問題に興味を持ち、ニューラルネットワークなどの研究をしていたが、意識に研究の場を移す。その際に研究パートナーとして30歳以上も若かったクリストフ・コッホを選ぶ。以降、クリストフ・コッホは意識の研究の第一人者の一人だ。
クリックは意識を研究する際に、注意(attention)を中核に据えた。なぜならば直感的に考えると、何かに注意を向けた時に私たちはその何かを意識するからだ。もちろんここで問題はでは注意とは何なのか、ということに対する結論が出ていない点にある。様々な理論があるが、いまだに結論は出ていない。さらにいうならば、意識も注意も熱いとか水とか空気といったような日常言語である。古代から熱いとか水とか空気という概念はあったが熱いというのは分子運動であるとか、水はH2Oであるとか、空気は様々な分子の集合体であるといったように、それらは物理学の言語に「理論還元」された。意識の研究は物理学でいうならば、ニュートン以前のレベルなのだ。
ゆえに意識の研究は神経科学(ニューロサイエンス)だけでなく、哲学が大きな役割を果たす。ニュートン以前は物理学は哲学の領域だった。事実ニュートンがニュートン力学を発表した著書の名前は「自然哲学の数学的諸原理」である。因みにニュートン以前の物理学はアリストテレスの物理学であり、そこでは目的論という主観的なものが物理学の説明に入っていた。例えば、ものが落ちるのは地球が全てのものの目的地であるからだ、というように。これらを全て客観的な自然法則に置き換えることで物理学は哲学から独立した学問となった。ものが落ちることことの説明は重力という自然法則によって置き換えられた。
意識の研究が難しいのは意識が主観的なものであるのに対して、それを神経科学という客観的なもので分析しようという試みであり、主観と客観という決して交わらないものをどのようにして繋ぐことができるのかというデカルト以来の哲学の難問であるという点になる。デカルト以降の伝統によると、世界には物理学で説明できる客観的なものと物理学には属さない心という主観的なものがあるということになっている(心身二元論)。現代哲学および認知科学(心理学、神経科学、人工知能など)では心は脳という物理的物質の作り出す機能であるということになっている(心の機能主義)。これにより認知科学的な心の側面は説明できるのだが、意識はうまく説明できない。だからこそ長い間意識の研究はテニュアキラーだったのだ。
この意識という主観的なものを神経科学という客観的なものと繋ぐという難問を哲学者デイヴィッド・チャマーズは「ハード・プロブレム」と呼び、意識が脳のどの部分でどのようにして生じるのかを神経科学が分析することを「イージー・プロブレム」と呼んだ。もちろん神経科学の領域も難しいのだが、仮に意識の脳内構造が解明されたとして、その客観的、物理的なものがどうして意識という主観的なもの、デカルト的な心につながるのかはわからない。
現在大きく分けて意識の理論には二つある。一つはグローバル・ワークスペースというスタニスラス・ドゥアンヌらの理論だ。もう一つはネッド・ブロックらの現象的意識・認知的アクセスという理論である。私たちが何かを知覚する際には、まず情報は後頭部の知覚野に入力され、その後前頭葉のワーキングメモリに入力される。ワーキングメモリに入力された情報だけが認知される。グローバル・ワークスペースは意識はワーキングメモリにある、という主張だ。一方、ブロックらは本当の意識である現象的意識は知覚野にあり、ワーキングメモリはその意識に認知的にアクセスするだけだという説をとる。
ではどちらの説が正しいのかというとブロックだろう。実はドゥアンヌも時として現象的意識はあるのかもしれないともらしている。グローバル・ワークスペースは認知的アクセスのみを理論化したものに過ぎない。
現在存在する現象的意識のメカニズム(生成理論)の中で最も有力視されているのはジュリオ・トノーニの意識の統合情報理論である。トノー二はφ(ファイ)という独自の情報の複雑さを定義し、この複雑さが高ければ意識が生成されると考える。ゆえに脳でなくても複雑さがあれば、意識は存在するという汎心論(意識は人間の脳に特有のものではないという考え方)であり、意識にも様々な程度があるということになる。様々な批判はあるものの、この理論は人間の意識をある程度説明できる。
しかしこれもやはりイージー・プロブレムの領域を出ることはない。意識の統合情報理論はφ(ファイ)により意識の生成、存在を因果的に説明するが、それは因果要件(causal part)であり、構成要件(constitutive part)ではない。例えば、血の循環は意識の生成、存在に必要である因果要件ではあるが、血は意識そのものの構成要件ではない。つまりφ(ファイ)は単に複雑さの計測であり、脳内で「どのようにして」複雑さが生成されるのかを説明することはできても、「なぜ」その複雑さが意識なのか、「なぜ」その複雑さを意識として定義できるかに関しては何も説明していない。やはり主観と客観をつなぐことはできていない。
